自宅前、ふと目に入った雑草を抜こうとしゃがんでみると、目が合いました。
そんな素敵な出会いのあった日の空は格別で、もっと上手く撮れれば良いのに…。と悔やまれるほどに素晴らしい空でした。
何事もコツコツと真面目にするべき!な私は、
『出来ない』はない。出来ない理由を考え、克服すればできる。
『出来ない』が分からないから、いつまでも出来ない。
とまぁ、正論を武器に息子を閉口させてしまいます。
確かに私の言っていることは正論。
ただし、正論だからと言ってそれが全ての人に当てはまるのだろうか?
そもそも、自分の正論を人に押し付けることは果たして正しい事なのだろうか?
以前働いていた会社で、
『使った布巾は必ずこの場所に開いて置くべき!』
『洗った後は、四隅を整えて指定の場所に置いておくべき!』
と自分の正しいを、相手に強要している人がおり、周りは苦笑い。
自分の正しいが全てではなく、そして自分が得意なコト、分かるコトが必ずしも周りも同じように分かるわけではなく、別の見方で分かる人もいたり、(例えば、文章より図の方が分かりやすいなど)自分の見え方だけでは、相手は推し量れないのだとここ数年痛感します。
そんな、バリバリ左脳寄りな私の正論から逃げ出した息子が、2階の吹き抜けからヒラヒラと、なにやら置き土産。
勉強ができる人から言われたら説得力があるのですがね(笑)
・なぜ、何度も言っても分からないのだろう?
・なぜ、同じ間違いばかりするのだろう?
・なぜ、自分で考えないのだろう?
決して息子に足しての文句ではなく、純粋に私には分からない、なぜの塊。
上記に対する私のアンサーはとても明確。
・私であれば、一度言われたことは間違えないように覚えておく。
(ノートにメモするなどの対策をとる)
・私であれば、間違えないように苦手な個所は何度も繰り返して克服する。
・私であれば、まずは人に聞く前に自分で調べる、考える。
しかし息子は、『私』ではない。
であれば、『私であれば~』とはならない。
学ぶことは楽しく、ともすれば『学びたかったことを学ぶ』から、『学ぶことが楽しいから、とりあえず学ぶ』と本末転倒になりかねません。
学ぶことは楽しい。
息子も自分が好きなことについてはとても詳しく(勉強以外のことですが)、集中すると時間も関係なしに没頭してしまいます。
そう、勉強だけが全てじゃないことも事実。
沢山の本やネット情報などで、分かったつもり、知ったつもりになることが私には多々ありますが、こういった息子(人)とのやりとりでの気付きが一番腑に落ち、そして腑に落ちたことしか自分の血となり肉となっていないような気がします。
知識は後でよいのかもしれません。
まずは、学びの実践が大事です。