精神世界やスピリチュアルの本を開くとよく目にする一文。
『人間も自然の一部』
何となく頭ではわかっていても、実感がなく腑に落ちない。
ここ最近、良い意味でのシンクロが続いており、何故なのか自分なりに考えてみると、思い当たることは不自然な事をしない(=不自然な事をしない人間は自然)なのではないかと。
具体的にどうなのかというと、
・自分の思う通りにしたい、(人を)動かしたい = 我を通す
・モノやコトに対する思い、思い込み = 執着
が不自然な事だと気付いたこと。
そもそも、自分の我を
『こうすれば、みんながやりやすくなる、分かりやすくなる』
といった、『みんなの為に!』という大義名分に置き換えて自分の我を通していたのではないかと。
当時はそんなことは露も思わず、自分の思う正義に向かってひたすら脇目も振らずにひた走っていたように思います。
更に、その我を通すことに対して『こうしなければならない』と執着していたこと。
コントロールしようとせず、目の前に起きたことをそのまま受け止め、(自分の正義感に基づいた)良いか悪いかの判断を下さず、あるがままに受け入れる。
文章にすると何とも短く、それこそ自己啓発やスピ本に出てくるまんまなのですが、この感覚というか、体験がやっと腑に落ちスッキリ!
沢山の本を読んでも似たようなフレーズばかりで(←事実なんだから当たり前なんですけどね。それが体験するまで分からなかった。)、それこそ分かった気になって『知ってる、知ってる』と流し読み。
ただ、
『知っている』と『体感する』は雲泥の差で(←これも文章にすると陳腐なのですが、本当にそのままなのです。)それこそ自分が体験して初めて分かったこと。
曲がった道を、(自分の思う)最速・最短・真っすぐに直線にしようと(我と執着で)もがいていた私。
曲がった道は曲がったままで良く、直線よりは距離は長くとも、路面は石ころでガタガタでも、途中でお花畑に出るかもしれない、キレイな田園風景に出会えるかもしれない。
最後まで石ころだらけの道であっても、それはそれで良く、その道中をあるがままに受け入れる。(石ころをよける知恵をつけるかもしれないですしね。)
曲がった道を直線にしたところで、では無理矢理に直線にした残った道はどうなるのか?
辻褄合わせは最後に歪みを生み、その出来た歪を真っすぐにするべく、また不要なエネルギーを生み出し、負の循環。
昨夜、自分と息子の関係のあり方について、そんなことにふと気付きました。
直線でなくても良い。
曲道でも良い。
直線であっても良い。
何が正解で、何が不正解は私が判断することではなく、そもそも判断することではない。(人として、して良いことや悪いことの道徳的な事は別として。)
要は、子供であったとしても一人の人間。
その子供に対して不自然な事はしない。
もちろん、人にも周りの環境、もっと大きく言ってしまえば自然にも地球にも。
『人間も自然の一部』
自分が自然であればあるほどに、不自然とは遠のき、自分の思うがまま、自由に人生を生きれるような気がします。
今日の梅雨空とはうって変わっての、昨日の空。
今週末(21日)は夏至。
どんなエネルギーに変わっていくのか、楽しみです☆