REIKI-TREE 気と木に戯れる

レイキのある生活

嘘のような、本当の話し

夢からのシンクロが多くなってきている近頃、とても面白い夢を見ました。

明け方近くに『袴の着付け出来る?』と男性に聞かれ、出来れば男の人はお断りしたいと思いつつ、『出来ます!』と即答。

 

そこで目が覚めちょうど起床時間。

ケータイを見ると、メール通知に知らないメールアドレス。

内容はというと、『娘の袴の着付けを検討しています。』と。

 

『・・・!?』

 

こんなにハッキリと現実と繋がったのは初めてかもしれません。

 

今まで鮮明に覚えている夢はいくつかあるのですが、(そのうちの一つは祖父が亡くなった後に見た夢で、その夢がきっかけでレイキを知ることになります。)どれも明け方の夢。

 

ここ最近では一度も参拝したことのない神社の名前で起こされたことが2度あり、一社は奈良、一社は兵庫。

場所を調べてどちらも参拝に赴きました。

 

『夢だから』と片付けてしまうことはとても簡単なのですが、どうにも違和感があり、この違和感をそのままにするのか、(いわゆる見ないふりをしてやり過ごす)それとも違和感に付き合ってみるのか。

私は、今までの自分とは正反対の後者を選択をし、どのようになるのかここ数年実生活で試みています。

 

自分が体験しなければ私は納得が出来ず、たとえそれが遠回りになったとしても自分が理解するにはそれしか方法がないのが現状。

 

以前の私であれば、『夢だから』でおしまいだったことも、どうも明け方に見る夢は鮮明で、

 

『覚えているように!』

『実行するように!』

 

と言われているような気がしてならず、そんな自分のちょっと気になるを馬鹿々々しいと否定せずに実行しております。

 

自分で自分の存在価値を肯定している作業と言えば聞こえは良いのですが、そんな大それたものでもなく、ただどうなるかが知りたいといういわば実体験による考察。

 

そして、そんなことを繰り返し感じるのは、やはり目に見えないモノは目に見えないけれどもあるということ。

 

例えば、土の下を縦横無尽に広がる木の根のように、見えないけれども存在し、それはなくてはならいもの。

 

表面上は見えない木の根

表面上に見える木の葉

 

どちらか一方で成り立つわけではなく、どちらも揃って初めて木として存在することが出来ます。

 

人間も同様、表面に見えることだけが全てではなく、見えなくともあり、その見えない部分と見える部分が揃って初めて人間として存在しているのではないのでしょうか。

 

ずいぶんと話が反れてしまいましたが、私の夢の嘘のような本当の話し。

 

私が数年前まで頑なに信じてきたことは、自身に起こる様々な出来事によって、脆くも崩れ去っているような気がします。

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